福島第一原発事故で双葉町から逃げ遅れて「被ばく」だって!

マスコミ報道は感染者数が増え続けている

新型コロナウイルスのことばかりだが、

これも無視することはできない。

そうでなくても東日本大震災から9年、

14日で、熊本(大分)地震から4年になろうと

しているのだから。

 

5日の東京新聞こちら特報部」では

福島第一原発事故が起きた時に

家族とはぐれて職場の人や利用者とともに

必死になって避難したが

途中で被ばくをしてしまった

元・双葉町社会福祉協議会社協)職員の

証言を掲載している。

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2011年3月11日、沢上幸子さん(44歳)は

激しい地震社協の事務所が入る福祉施設の一階にいたが

近くの駐車場に逃げ出し、幹部から指示をうけて

一旦帰宅、家族はビニールハウスに身を寄せていた。

「職場に帰っていいよ」と言われたので

再び戻り、避難所となった職場で炊き出しや利用者の手当てなどで

一日を終えた。

そして翌日の昼、防護服姿の警察官や自衛隊員が

施設に来て避難を強く求めたため

自宅に戻ったが家族はいなかった。

「取り残された」と感じたが、

気を取り直し職場である施設に戻り、

60人ものお年寄りの利用者と同じ職員の

避難のために近くの高校につけていた

ヘリコプターへ送りこんだが

送迎車から運動場へ降ろして送り込んだときに

「ドンッ」と轟音を聞いた。

そして施設にまた戻ると

「白い綿のようなもの 降ってきた」

それで羽織っていた雨がっぱがとけたので

手で振り払った。

避難先へ向かった送迎車からは

黄砂が舞った時のように

全体が黄色く見えたという。

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すべての利用者を避難させるために

近くの高校まで2往復。

沢上さんは誰もいなくなった施設をあとにしたのは

午後6時過ぎ。川俣町に着いたのが13日午前0時。

一夜を明かしたあと

家族と避難すると告げたが

幹部からスクリーニング検査を受けないと

県外から出られないと言われて

二本松市の会場へ夫の車で移動。

着替えをしないまま受けた検査では

 

「測る機械はずっとピピって鳴っていた。

 特に腕のあたりは」

 

測り手は単位を変えますといって

測定値を口にせず「服は捨てて」と告げられただけ。

「夫も測ってもらったけど

 鳴らなかった。

 『やっぱ違う、私は被ばくしてる』

 と思った。」

13日から14日まで

川俣町でもスクリーニングは行われていて

あの時避難した利用者と職員たちの

測定値は、ほとんどが

数万cpmといわれ、爆発時に外にいた人は

10万cpmと放射線医学総合研究所(放医研)の

報告書ではそう書かれている。

となれば、沢上さんの測定値も

そうなっても不思議はないはずである。

しかし本人には

その数字がいまだに告げられていないのだ。

そして県外に避難している本人は

内部被ばくの疑いがありながらも

いまだに調べてもらえないまま

もう9年もたっている。

 

これはコロナウイルスと同じである。

日本は他の国と違い

検査対象者を絞って調査して

その都度感染者数を公表している。

広範囲で疫学調査をすることで

大パニックを防ぐためなのだろうが、

これでは日本に住むすべての人々の

不安と不満が解消されるわけがない。

医療崩壊を防ぐためだと言われているが

あのダイヤモンド・プリンセス号の

隔離対策が失敗したところで

こうなることを事前に予測し

対応できなかったツケが

志村けんさんが助からなかった要因にもなった。

「感染したくらいなら重症化しなきゃ

 大丈夫だろう?」と言ったら

たぶん皆さんは怒るでしょう。

しかし、あの原発事故のときは

「ニコニコ笑っていれば放射性物質なんか

 大丈夫ですよ。」と暴言を吐いていた

専門家が福島県

放射線健康リスク管理アドバイザーを務めていた。

被ばくをしたくらいでは

大したことはないという

根拠がないどころか、

国の専門機関と県との対応の違いによる

無責任きわまりない対応策が

いまだに被災者の心に

不満と不安を与え続けているのだ。

 

結局政府はあの震災と原発事故から

大切なことに何も気が付いていないのだ。

政権が変わっても憲法が変わっても

この国はシモジモだけが

泣きを見ることに変わりはない。

「悪夢のような」はまだ続く。

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