津久井やまゆり園事件 植松聖被告「死刑」も残る「重い課題」

16日、横浜地裁で行われた

津久井やまゆり園事件の裁判員裁判

植松聖被告に

死刑の判決が下された。

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東京新聞の17日朝刊社会面では

8人の裁判員が審理に参加した感想を

記者会見で語ったことを伝えているが、

みんな言葉を変えながらも

被告がなぜこのような事件を起こすような

心の変化があったのかに

迫れなかったことに対する胸のいたみと

心が重くなる、またはやりきれない思いを語っていた。

60歳男性の裁判員

障がい者が生きやすい社会をつくってほしいという

遺族の思いに、

匿名で審理をすることはその裏返しなのだと

この社会の現実を痛感したと。

実際に被告人質問を何度繰り返しても

仕事を通じて被害者に対する

考え方に異変が起きた理由を

被告を一切答えなかったのは事実である。

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判決が言い渡された後、被告は

「最後に一つだけ」と手を挙げて

発言しようとしたが

青沼潔裁判長はそれを認めず

慌ただしく閉廷したと同紙の第二社会面。

この発言の先になにが隠れているのかが

わからなかったのは非常によくなかった。

相変わらずの自己弁護か。または凶行のパフォーマンスか

それともケジメをつけるための真摯な発言か。

(世界平和のためにはマリファナが必要だ、ではわからない。)

それだけでも遺族が

被告の心の乱れを掴む手掛かりになったはずだ。

死刑は望んだ判決だったが

反省の言葉が公判の中でなかったことに

むなしさを感じた遺族もいたと記事から。

死刑判決が出ても

このような事件が二度と起こらない保障がない。

それどころか

知的障がい者とその家族が

周囲の目線を気にしながら

苦しい毎日を送る環境は変わらない。

この残忍きわまる事態を回避するには

事件で起きたすべての事柄を教訓にしなければならないが、

実際には植松聖という人間が

特殊な人間だったのが主な原因だと

思っているようでは何の意味もない。

狂気を生む環境は

私たちの日常に眠っていることを

もう一度問いたださなければならない。

そうでなくても

差別やヘイトはもはや

日常の中に当たり前のように存在しているのだ。

それがわからない限り

事件そのものが風化されてしまう。

「裁判は責任能力の有無の審理に

 重きに置かれ、津久井やまゆり園での

 入所者支援の実態が明らかに

 ならなかったことは残念だった。」

「死刑判決は出た。しかし、これで

 事件の幕引きとしていいのだろうか。

 『意思疎通できない重度障害者は

  安楽死させるべきだ。』

 『重度障害者は時間と金を奪う』

 という被告の主張に対し、

 私たち一人一人が反論できる考えを

 確立しないといけない。」

(映画「こんな夜更けにバナナかよ』の原作者で

 ノンフィクションライターの渡辺一史さん。

 記事より抜粋。)

この指摘に対する答えを国民全員で導き出すことが

これからの課題である。

植松聖は「たぶんそれは無理でしょう。」と

死ぬまでほくそ笑むことは

間違いないだろうから。

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