映画「盆唄」で思う真の復興とは

東日本大震災から

今年で9年を迎える。

いきなりではあるが、

盆歌と聞いて連想するのは、

かっての人気テレビ番組「8時だョ!全員集合」のテーマにもなった

「北海盆唄」だが、

福島にもそれがあったのだ。

3月1日にCSチャンネルで見た

映画「盆唄」の舞台は双葉町だ。

もうすぐ一部で避難指示解除準備区域が解除されるとのことだが、

映像は2015年夏から始まる。

「双葉盆唄」を笛と太鼓と歌で演奏する

稽古が本宮市で行われているところ。

しかしまだ全町が避難状態で

「だから残すつうったて

 どこに残すかつうったら、

 今、ない所に輸出するしかねえわね、いやホントに。」

そう言った横山久勝さんは

地元で電気工事業を営むかたわら

創作太鼓「せんだん太鼓」会長として

太鼓の保存と普及を行ってきたが

避難が続いている中で地元での

復活をあきらめていた。

他のメンバーも福島の県内外でバラバラに避難したことで

思うようにいかない状態が続いた。

そんな中、写真家の岩根愛さんが

ハワイの日系社会で

盆踊りをやっている中で

「福島盆唄」をアレンジした「フクシマオンド」を

やっていることを横山さんらを

撮影するなかで教えてくれたのだ。

2度に渡ってハワイ・マウイ島に渡って

横山さん達は日系の人達に出会い

ふれ合っていく中で

地元で行われた「ボン・ダンス」で

「双葉盆唄」を久しぶりに演奏することが

できたのだ。

それが2016年のこと。

「ハアー 揃た揃たよ

 踊り子が揃たよ(ハア ドッコイドッコイ)

 アアー 秋の出穂より ヤレ

 ヤレサヨ よく揃たよ

 (ハア ヨイヨイ ヨイトナ

  ハア ドッコイドッコイ ドッコイナ)」

「マウイ太鼓」代表の日系3世の

ケイ・サチコ・フクモトさんが

「フクシマオンド」の歌をリードしているが

その父、アルバート・サダオ・渡邉さんが

父・トミオ渡邉さんからこの歌を受け継いで

祭りの場でずっと継承してきたのだ。

その本家がいまでも福島市にあるということも知る。

オアフ島でも掛け声や歌詞が少し違うフクシマオンドが

 歌い継がれている。)

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マウイ島祭りの場で地元の人が

 近くの海から流れ着いたガードレールの支柱を見せてくれた。

 「4年かかって流れ着いたんだね。」と福島から来た人々からの

 声があった。)

映画は日系1世が開拓した最後のサトウキビ農場が

閉鎖されたことを伝える。福島とハワイがつながった年の12月に。

ケイさんが涙ながらに言う、

「今日はハレアカラ山が見えて美しい日、

 先祖もこの景色を愛したでしょう。

 無くなってみて初めて大切なことに気づきます。

 私は先祖に感謝しています。

 日本から船で来るのは大変なことだったでしょう。

 そのおかげで今の私たちがあります。

 福島の震災で私と日本の関係を考えました。

 双葉盆唄(フクシマオンド)を続け、

 いつか双葉に返したい。」そして

 「でもきっと、私じゃなくて次の世代ですね。」と。

明治時代から日本からハワイの移民が始まったが

富をつかむことの出来ない苦渋の生活が長く続いた。

その時も苦しさを乗り切るための歌があった。

「ハワイ ハワイとよ 夢見て来たが

 流す涙はキビの中

 きょうの仕事よ 辛くはないよ

 昨日届いた 里だより

 行こかメリケン 帰ろか日本

 ここが思案の ハワイ国

 条約切れてもよ 帰れぬやつは

 末はハワイの タロイモの肥(こえ)

 横浜でるときゃよ 涙で出たが

 今じゃ子もある 孫もある」

戦争中は1世は収容所、2世の男が兵役の悲しい歴史。

しかしその中で「別れの磯千鳥」がつくられて

日本でもヒットした歴史がある。

2世の貢献で市民権を取り戻したためだ。

この映画ではこれらの話のほかに

盆歌の原型が富山にあるということも伝えている。

天保天明の大飢饉で相馬の人々が

多数の死者が出た。

そこで越中から相馬への移住した人がいた。

しかし田植えにしても

水をもらう時にひどい差別を受けるなどの

苦労を強いられた。

「私の小さいころまで

 そういうことがあったんです。

 私、これ富山っていうと

 なんとなく昔の先祖のことを思い出してね

 うん、だから放射能だなんて騒いでっけれど、

 先祖が何、苦労したか知んねえから

 放射能なんて負けていられねえなと思って

 頑張っているわけなんですが、

 そんなわけで、今度ともひとつ

 よろしくお願いいたします。」

 浪江町出身の踊り担当井戸川蓉子さんの

 本家の佐々木弘さんが、富山・南砺市の願立寺で

そのルーツとなる、ちょんがれ「木蓮導者」を伝える人々に

話した言葉で、井戸川さんは今回ハワイに渡ったことで

自分たちの先祖も遠い越中から福島・相双地区に渡り

苦難の末に豊穣を手にして

子孫に恵まれ、祭りの時に祖先の孫が太鼓を叩かせてもらったことで

差別の壁を破るきっかけを掴んだ歴史を

思い起こしたという。

そこに流れるのは「双葉盆唄」だったのだ。

最後はいわき市仮設住宅

2017年8月に「やぐらの共演」が行われた

その日のすべてを。

横山さんは放射能と自分の中にある鬼をイメージして

「さくら」という曲を作り

ふたたび太鼓を張り直し

やぐらも双葉から持ってきて組んで

唄い奏でて踊った。夜になるまで。

そして、暗闇と静寂の中

やぐらの明かりが残り

地震津波で亡くなった方も踊ってください」

太鼓の音だけがそこにあり、

それが迎え火になったようだ。

たとえ14日に一部解除されても

ふるさとを取り戻すには

気の遠くなるような時間と手間がかかる。

(2022年に帰還開始予定)

苦難の歴史がまた積み重ねられる。

しかし、盆歌が残れば

決して本当の復興を諦めることはない。

そのメッセージを強く焼き付けた。

そう思えてならない。

あの時からもう9年が経っている。

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