新聞うずみ火「大阪・生野コリアタウンフィールドワーク」を読んで

今年最後の新聞うずみ火では

14日のうずみ火講座として開かれた

大阪市生野区のフィールドワークを

「コリアNGOセンター」代表理事

カク・チヌン(郭辰雄)さんの案内で行われた

記事が一面で載っている。

本当なら私も行きたかったが

仕事の都合で行けなかった。

鶴橋駅から小さな店がひしめき合うように

してまるで迷路のような

国際市場(だったと思う、講座はここから始まった。)は、

以前和歌山方面を旅したときに

お腹をこわして

体調が最悪だったときに

ここを訪ねて、昼食がてら入った

食堂で牛肉のダシでとったスープの

雑炊のようなの(名前を忘れた)を食べて

帰宅までの体力を取り戻した記憶がある。

その後「うずみ火」の用事で大阪に来た時に

再訪して、とある店の窓ごしに見た

チマチョゴリの鮮やかな色彩にも

何か引き付けられた思い出もある。

カクさんは講座の中で

昔は今のようなきれいな店ではなくて

在日のおっちゃんが駅の裏手の民家の一階で

ホルモンを焼いて手作りのマッコリを

提供してみんなで楽しむエリアだったと

説明したそうだ。

確かにあの時入った店はそんな感じがした。

今でも残っているだろうか。

実はこのあたりは2001年に

環境庁(当時)の「かおり100選」に選ばれた

そうだ。2002年のサッカー日韓W杯を前に

交流への機運が高まった時期になる。

この市場も終戦後の闇市から始まり

日本人や在日コリアンだけでなく

台湾出身者なども一緒に連盟を結成したということが

「国際」の由来だというだと初めて知った。

実はコリアタウン

この市場から南北に抜ける疎開道路に沿って

あるということで

この道路は1920年始めに治水工事をした時に

職を求める朝鮮出身者がたくさん

この工事にかかわったという。

戦争中は陸軍砲兵工廠からその周辺の

町工場を抜けて

南の大和川への海運の便を考え

道路幅を拡張したことから

疎開道路」と言うようになったと。

いまでは大きなホテルが出来る予定で

「韓流道路」と呼ばれるように。

時代の移り変わりがあっても

その歴史の重みを感じさせる。

(この日は京セラ大阪ドームBTS防弾少年団】のライブがあった。)

その後この道路横にある

御幸森天満宮に立ち寄り、

境内にある石碑を案内した。

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地元の人たちが10年前に建立した碑で

「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花

漢字を伝えた百済からの渡来人・王仁博士が詠んだ歌で

9世紀の文字と藤原定家が書き写したひらがなの文字

そして江戸時代の対馬藩の学者によるハングルの文字。

江戸時代に12回に渡って海を渡った朝鮮通信使に由来するそうだ。

もともと豊臣秀吉朝鮮出兵をしたときに

たくさんの朝鮮人を殺したくさんの捕虜と文化財を収奪したことから

徳川幕府はいかに朝鮮との関係を修復させるかが

非常に重要な外交課題だった。

その歴史を伝えるのがその碑に残る

ハングル文字だったとカクさんは説明した。

このような歴史をもっている間柄なのに

どんなことがあっても一緒に手を握って

生きていかなければいけないのに

今では逆の方向に行くこと自体がまちがっている

ということも語ったとも。

日本と朝鮮半島はそれぞれに

さまざまな変遷をたどっているが

大昔から交流を始めて

互いの生活に多大な影響を与えていること。

そして互いの違いを知り、それがあるから

町としての豊かさ、多様さから

本当の活気さが生まれてくることも

大切にして街づくりを進めているのだと。

大阪はまた都構想へ向けて動き出して

いるようだが、

このコリアンタウンの中にある

この街だからこその良さを無視するのみならず

これを排除する動きをみせれば

大阪は東京の物まねしかできない

薄っぺらな都市として

何の魅力もないまま衰退することになるだろう。

東京に勝ちたかったら

コリアンタウンに学び

それを活かしていくことが大切なのだ。

私は記事を読み終えてそう思った。

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