いつも年末は東京の「新聞うずみ火」忘年会に
参加するのは恒例だったが、
今年は家族の状況がわからない状態のなかで
沖縄で一緒に行動した同じ読者からの
誘いがあったことから、
12月8日の埼玉での忘年会に参加することを選んだ。
そこから東武東上線の川越特急で
集合場所の東松山駅へ一直線。
(川越市・坂戸間の車窓、わずかに富士山が見えたので撮影。)
参加者は編集部代表の矢野さんを含めて7名。(途中参加1名を含む)
まず埼玉ピースミュージアムへ。
大東文化大学の近くの物見山公園の中にあり
シンプルでコンパクトな建物の中に
戦争と歴史の流れを追った展示と資料があった。
特に熊谷空襲(1945年8月14日)と
埼玉関係の戦時中のポスターやチラシ、
さらに昭和初期と戦時中の住宅の比較と
国民学校(いまの小学校)の教室。
そして防空壕はリアルに再現されていて
実際にそこにいるような体験ができる。
このような資料館は全国でも少ないと思う。
(駐車場から撮った展望台)
(展望台からの眺め、埼玉県のイメージキャラクター「コバトン」が見える。)
一旦東松山駅にもどり、途中参加の方と合流して
今度は「原爆の図・丸木美術館」へ。
ここではみんなで「原爆の図」を何も言わずに
ずっと見続けた。
私は昨年5月以来の来館だが
やはり生でこの絵を見続けることが
平和と反核を考えるきっかけになると思う。
しかしいま、原爆の図は開館から50年以上たって
長期にわたる保存や修復などで
多額の費用がかかることから
保存基金を立ち上げて
5億円を目標に寄付を呼び掛けている。
(2階の小高文庫。丸木位里・俊夫妻のアトリエでもあった。ここで
私もすこし「絵」のようなものを描いた。)
最後は吉見百穴へ。
ここは国の指定名跡として
古墳時代の後期から終末期(6~7世紀)に
造られた横穴墓(よこあなぼ)がたくさんあり
横穴式石室とほとんど同じ遺跡であること。
そして植物学上極めて珍しい「ヒカリゴケ」が
生育されていること(一番下の一部の横穴から見える)。
さらに戦時中に中島飛行機の軍需工場跡があることでも
知られている。
この百穴は1887年から本格的に
発掘調査が始まったのだが
その遺跡の下を掘って工場にしたのだから
戦争がのこした傷跡が今でも残る
大きな証拠となっているのだ。
ただし洞窟の中にある、
軍需工場跡は崩落の恐れがあることで
中に入ることができず、
その入口を写真撮影するだけ。
そこだけは残念だった。
百穴を登った上の林の中に
民家らしきものがあったが
参加者の一人の知り合いの知り合いの持ち物で
その百穴の上部の土地もまるごと所有していたとのこと。
結果的に吉見町に売ったというわけだが、
喫茶店でもやっていたかのような建物だった。
このあと近くの武州松山城跡を見る予定だったが
忘年会の会場(駅近くの養老乃瀧)の予約の時間が近づいたので
割愛して打ち切り、
あとは楽しい宴へ。
旬のカキなべと味噌だれで食べる焼き鳥がうまかった。
2019年最後の出会いに感謝を。
(百穴の高いところから見た富士山)