「コンサート・自由な風の歌14」の話の付け足し

f:id:shiraike:20191008231923j:plain

(プログラムより)

日曜日に参加した合唱などのコンサートについて

もう一言。第一部では主に

バルトーク・ベラ(1881~1945)が

手掛けた曲が演奏された。

バルトークハンガリーユーゴスラビアルーマニア

3つの国境に面した辺境の地に生まれ育ったが

幼少時はドイツ語・ドイツ音楽に支配される生活を送り

その後は第一次世界大戦のドイツ敗北でルーマニア領になり、

さらに第二次世界大戦ではナチスドイツの台頭で

ハンガリーの敵国になってしまったことから

自らの故郷が「外国」「敵国」になった苦しみを受けた。

そして発表したあとに曲の名前を変えないと

非国民だと言われる中で

変えることなく貫いたのが

ルーマニア民族舞曲」だったという。(1915年)

そしてバルトークは1940年に

ナチスドイツに抗議文を提出。

当時ナチスの支配にあったオーストリア・ウイーンの

ユニバーサル出版社との契約を破棄。

年老いた母親を残しアメリカへ亡命。

その前に、故郷の農村を回って交流した人々の

大地に根ざして生きる人々の曲として

つくられたのが「コントラスト」だった。(1938年)

f:id:shiraike:20191008234438j:plain

これらの曲を聴いて思ったことは

独創的というよりは

単純な旋律の中に何か人々の足音を感じさせる

すなわちここに生きる人がいる。

それも強烈な存在感ではなくて

普通の暮らしの中の風景に

なにげなく存在する存在を大切に

音で描いている感触があった。

まさに国家主義の入り込むことがない

自由の息吹きを思わせる曲だった。

そこで崔善愛先生の話が入る。

バルトークがこの曲をつくるときに

 トスカニーニ(1867~1957)もある行動を起こしました。

 ファシスト党にたいして、イタリア国旗のもとで指揮せず

 イタリア国歌を演奏しないと宣言したことです。」

www.hananoe.jp

 

言論・表現の自由を求める闘いは

長い歴史の中で大きな広がりを見せて

いまではそれが当たり前のようになったと

思っている人が日本では多くなっている。

しかしその歴史を風化させたり

忘れたりすれば、その自由が再び脅かされること

も忘れてはいけないが、

あいちトリエンナーレ「言論の不自由展・その後」

では、まさに自由を破壊する行為で

一時中止に追い込まれてしまった。

昨日、再開されたのは良かったが

河村たかし名古屋市長が座り込みと称する

妨害行為を7分間もやったというニュースもあった。

もう市長をお辞めになられたほうがいい。

ただの人になれば警官につまみ出されて

それでおしまいになるのだから。

www.youtube.com

www.youtube.com

www.asahi.com