ゴジラと日本国憲法の関係の変遷について(2)

(承前)ゴジラ第1作では

唯一の兵器である「オキシジェンデストロイヤー」の使用を

芹澤博士は頑なに拒み続けるが、なぜ最終的に使うことを

決めたのかについて、このシーンがあった。

「やすらぎよ 光よ

 早く 還れかし

 命こめて 祈る我らの

 このひとふしの あわれに愛でて

 やすらぎよ 光よ

 早く 還れかし ああ」

香山滋作詩 伊福部昭作曲)

尾形(山根博士の娘、恵美子の恋人)の説得に首を縦に

降り続ける芹澤博士のところに

テレビのニュースがこの合唱曲に乗せて焼け野原の状況、

避難所の状況、ラジオに向かって手を合わせる人々の状況、

そして祈りをこめてこの歌を唄う女学生たちの姿が映し出された。

「その映像に、見入ったかと思えば顔を背け逡巡する

 芹澤博士だったが、ついに意を決して立ち上がり、

 オキシジェンデストロイヤーの設計図を持ち出す。

 その行動に戸惑う尾形と恵美子に対して、

 芹澤博士は『尾形、君たちの勝利だ』と

 吹っ切れた表情で伝える。

だが同時に、『しかし、僕の手でオキシジェンデストロイヤー

使用するのは、今回一回限りだ』と宣言し、これまでの

研究成果である設計図を火にくべていくのであった。」

(論文より抜粋)

オキシジェンデストロイヤーが再び平和を脅かされるという

リスクを封印してゴジラ駆除のためにこの兵器を

使うという所に、

世界平和を日本が強く望んでいることと、

軍事力では平和を創ることは出来ないことを

重いメッセージとして第1作は締めくくっているわけだが、

時代が経つにつれて平和が当たり前になり

憲法前文や9条の精神が顧みられないことが多くなる。

第25作「ゴジラモスラキングギドラ大怪獣総攻撃」

(2001年公開)ではこの忘れてしまいがちな

平和の尊さに警鐘を鳴らした作品だと指摘している。

この作品ではゴジラは水爆実験によって

生まれたものではなく

「強烈な残留思念の集合体」だと

主人公のテレビレポーター立花由里に

謎の老人が答えるシーンがある。

ゴジラは砲弾が当たっても死なないのは生物でないからだと。

それでは何かという問いに

太平洋戦争で命を散らした数知れぬ人間たちの魂が

宿っている、救われない無数の魂がゴジラに宿ったのだと。

「でも、ゴジラが戦争で犠牲になった人の化身なら、

 どうして日本を滅ぼそうとするのですか?」

という問いに対して老人はこう答える。

「人々がすっかり忘れてしまったからだ。

 過去の歴史に消えていった多くの人たちの叫びを!その無念を!」

ここに出てくるゴジラは白目で、対峙するのも

自衛隊ではなく「第2次大戦後、平和憲法のもとに創設された防衛軍」

という架空の組織であり、唯一の実戦が

1954年のゴジラとの戦いだったという設定になっている。

「平和な時代がゴジラの恐怖を忘れてしまったようだ」

「実戦経験なきことが最大の名誉でした」

(主人公由里の父、立花泰三准将のセリフより)

これらの中に

日本国憲法の平和主義を想起させるような場面を見受けられる

 のも、この作品の特徴であった。」

(これも論文より抜粋)

ゴジラは怪獣映画としてその特撮の凄さと迫力が

多くの人たちを引き付けさせて大人気を博してきたが、

その一方で平和をいかに守り

戦争の歴史をどのような形で語り伝えていくかを

物語の随所にちりばめている。

そしてそのヒントとしての

日本国憲法があるということをさりげなく

入れているのではないかということが

わかってきたような気がする。

そして、ゴジラは民主主義の理想は

こうではないかと思わせる場面も出てくるという。

(つづく)

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www.tokyo-np.co.jp

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