福島県双葉町 原発と生きるということ

ことしもフジテレビの深夜枠にFNSドキュメンタリー大賞の

ノミネート作品が放送される時期になって来たが、

17日早朝(16日深夜)に放送されたのは

福島テレビ制作の「福島県双葉町 原発と生きるということ」

だった。元双葉町の町長をテーマにしたということから

井戸川克隆さんのことかと勘違いしたが

そのまた前の岩本忠夫氏の生涯について取り上げた作品だった。

岩本氏は福島第一原発(いちえふ)が建設される頃に、

原発運動を地元で繰り広げてきたが

原点は広島・長崎の原爆にあったと。

活動を共にした石丸小四郎さん(76)は

「核と人間は共存できないと私に教えてくれた人」と。

1971年(昭和46年)に福島県議会議員に

当選した岩本さんはいちえふが営業運転を開始しても

双葉地方原発反対同盟を結成させその運動の先頭に立ち、

いちえふ内で起きた被ばく事故(同年)の追及をするなど

原発を貫くと思ったが、

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(写真はテレビ映像より)

双葉町原発による経済効果の恩恵をうける中で、

「もうできちゃったからあとずさりはできない

というのが一番の問題」「打てば響くという状態ではなかった」

(石丸さん)の中で県議選に落選を続けた岩本さんは

これらの活動から身を引いた。

その後汚職事件によって前の町長が辞任した後の

選挙で当選。1985年(昭和60年)12月のことだった。

そして電源三法による交付金が打ち切られる中で

1991年(平成3年)新規原子炉の建設を

通産省(現・経産省)に要請する。その中には

常に苦悩の中での決断を強いられたことを

石丸さんと現町議会議員の長男・久人さんの

証言でつづられていく。

そしてに岩本氏が町長として行った仕事として、

絶対安全な原発運転の追及と

もしも事故が起こった時の災害対策を

町で整え、国に主張するという「新たなる決断」だった。

1992年(平成4年)に原子力対策室を設け、

いちえふにおけるプルマーサル運転とさらなる原子炉の増設を

条件付きで「反対」していたのが

いまではほとんど知られていない事実だ。

しかし2011年(平成23年)3月11日

岩本氏が憂慮していた原発事故が起きる。

親子2代、地元で原発作業員をした家族が

「すべてが3・11でふっとんでしまった」

(河野弘幸さん・52歳)

その一方で、いわき市の災害支援住宅で行なわれた

ダルマ市(今年1月)では町民たちがバスに乗って

やっと再会できたことの喜びと、

ふるさとをあきらめきれない思いをぶつけていくこと

の風景。事故の傷が8年経ったいまでも残り続ける中で

ふるさとを諦めない町民たちの切なる思いがそこにある。

岩本忠夫氏は事故後4か月後に避難先で死去(84歳)。

ふるさとのために何が出来たのかと苦悩ばかりの人生だったが、

残された人達には少しづつその思いを理解し

受け止められている。

双葉地区原発反対同盟の集会の中で石丸さんは

私たち内部では評判がよろしくないが

原発運動をよく頑張った人ですと岩本さんをたたえた。

番組の最後で長男・久人さんは今年春に

前田川沿いの桜を見に双葉町に帰ったときの映像。

父・忠夫さんが青年のころにこの桜を植えたと

最近知って驚いたという。

「父は町長になって町づくりは人づくりだと一貫していた。

 やっぱり人なのかな」

「人と人とのつながりとか 助け合いとか

 心だったり優しさを父は一番大切にしていた」

(久人さん)

 

故郷を愛する心は決して目立つものばかりではない。

むしろさりげないところにそれが眠っていたものがあるのでは

ないかと。それを掘り起こして考えていかなければ

これからも原発事故に限らず

私たちの平穏な暮らしが瞬間で失われていくことが

これからも多くなるのではないのか。

番組全体で強く訴えていたのはこれではないかと思う。

「福島第一(原発)しか自分にはない。

 その気持ちで毎日通っている」

(3月11日も出勤する河野弘幸さん)。

いまでも事故の収束作業は続く。

しかし復興は決して加速しているわけではない。

しかし来年3月に双葉町の一部避難区域は解除される予定だ。

7月21日の参議院選挙では福島県民はどのような

判断を下すのだろうか。

そのとき、岩本忠夫氏の思いは生かされるのだろうか。

すべてはまだ「わからない」ままだ。

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1971年当時の運動旗はいまでも双葉地区反対同盟に残る(番組の映像より)

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