千葉空襲・平和祈念碑建立4周年の集いに参加

千葉市空襲犠牲者刻銘式平和祈念碑が建立されて

今年の7月7日に4周年になる。

毎年この日に行われる「建立の集い」のお誘いの

手紙が届いたので、きのうの午前中はここに参加。

場所は千葉県庁近くの亥鼻公園千葉城址)の

千葉市郷土資料館前広場。ここに祈念碑があるからだ。

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20名ぐらいの参加者が集まり、まず

平和祈念碑を守る会代表の森大死さんの開会挨拶、

その後1分間の黙とうをささげ

次にグループ・彩の会の竹山幸子さんの詩の朗読

石垣りんさんの「弔辞」。

職場新聞に掲載された東京大空襲戦没者名簿

に寄せて書かれたこの詩は

あの戦争が終わってから20年後に書かれたものだ。

 

戦争の記憶が遠ざかるとき、

戦争がまた 私たちに近づく

(詩の一節より)

 

「今の時代は本当にそうなりそうに

 なっているようですね。

 だからこそ戦争の記憶を語り伝えなければならない。」

(竹山さん)

つぎに伊藤章夫さんから刻銘に関する報告。

建立時は671名だった刻銘は3年目で721名。

昨年度からの数字は変わらなかったが

2名が重複していたので680番と681番を削除し、

717番と718番に古山林(夫)さんと古山芳子(妻)さんを

移し、新たに680番に今井ふささん、681番に「大岩女性教師」

を加えたと説明。

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(犠牲者名簿を片手に説明する伊藤章夫さん)

また千葉通子さん(千葉市空襲と戦争を語る会)から

先月行われたピースフェアで刻銘された方の親戚が訪ねに来てくれた

との話があり、

「ここで刻銘碑についての呼びかけをすることで、さらに

 いまだ不明の犠牲者の名前を追加することが出来る」と。

戦後74年を迎え、新たな歴史の発掘が難しくなっているからこそ

刻銘碑をより多くの人々に知ってもらう必要があることを

訴えた。

また全国空襲被害者連絡協議会の河合節子さん(千葉市在住)から、

空襲被害者を救済する法律の制定に関する

訴えと行動の状況を話してくれた。

mainichi.jp

「日本は戦争によって被害を受けた一般市民に対しては、

 一言の謝罪も、賠償もしていない。自然災害には援護されるのに、

 国が始めた戦争による死者、障害者、戦争孤児や遺族に

 国は責任はないという基本的な態度は、今も、

 更には未来へも継続されている。

 戦争による犠牲、損害は国民が等しく受忍しなければならない

 (受忍論)は断ち切らなければならない。」

(ピースフェアのときにいただいたチラシより、河合さんの書によるもの。)

集いは30分で終わり一部の方は引き続き食事会に参加したが

私は千葉駅で昼食後他を回って帰宅。

しかし、次の世代へこの空襲の記憶を残さなければならないと

集まった全員で強く誓った時間であった。

雨と風に悩まされた一日だったが、集いの時は

それがすべて止み、かすかに日が差したのが救いだった。

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(空襲で死んだ家族が刻銘された所を指さす森大死さん)

 

(付記・千葉市空襲について)

千葉市は3度の大きな空襲を受けた。

1945年(昭和20年)5月8日昼頃、

6月10日早朝8時頃、

そしてもっとも大きな被害を受けたのが

7月6日深夜から7日に渡った「七夕空襲」だった。

市内中心部(現在の中央区一帯)がほとんど焼夷弾攻撃で焼失。

鉄道第一聯隊、気球聯隊・歩兵学校・千葉陸軍高射砲学校等の

軍事施設も被害を受けた。

羅災面積2.05㎢、死傷者1204名、羅災戸数8489戸。

この中には同年3月10日の東京大空襲で被災し、

再びこれらの空襲によって2重の被害を受けた人もいる。

(これもピースフェアでいただいた資料を参照に)

 

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