新聞うずみ火沖縄ツアー(8)

(7月1日のブログのつづき)沖縄ツアー3日目の朝は飲みすぎでやや不調。

食欲が今一つの中で迎えた。予定では読者仲間のNさんと

南部戦跡と平和祈念式典、その後に白梅慰霊祭と

対馬丸記念館を回ってから帰宅の流れだったが

起き抜けにNさんから電話があり、

タクシーの予約(配車)がどの会社に問い合わせても

出来ないとのことだった。

最悪の場合は国際通りでつかまえようと約束して

宿をチェックアウトして、近くの道を歩いていたら

1台のタクシーが近づいてきた。Nさんが

つかまえてくれたのだった。ありがたい。

しかし21日同様ご年配のドライバーで

普段は那覇市内を流していて

南部方面は全く行ったことがないと言われた。

不安を抱えつつ、Nさんが希望していた

魂魄(こんぱく)の塔へ。

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雨や風が激しい中を多くの参拝をする人が祈りを捧げて

花を供えていた。この塔は近くにある平和祈念公園が出来る前から

沖縄戦で犠牲を負った人々の遺骨がここにあったが、同公園が

出来てこちらのほうに分骨された。

しかし当時の戦さを体験した人にとっては思い入れのある場所として

いまも6月23日にたくさんの遺族や関係者が訪れる。

近くには広島、香川、奈良県出身者などの慰霊碑もあり、

私達はここにも手を合わせた。

次は健児の塔へ。

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着いた時は慰霊祭が始まる直前だったので

少し写真を撮って平和祈念公園に移動したが、

ここで「うずみ火」のスタッフと同じ読者のHさんと合った。

私達のほうが到着が早かったようだが、

「これで式典に間に合うのかな」と気に掛ける。

しかしこちら2人も公園についてから

駐車出来る場所を探すのに難儀して

(事前に県の許可をもらわないとタクシーでも不可能)

しかも式典が終わったら電話するから指定の場所に来てくれと言ったら

携帯電話を持っていないと言われ、会社に電話してくれたら

無線で呼び出すからここへ来れるということで

確認をして下車。

時間が早かったので中にある資料館を見学。

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今も地中にあるといわれる不発弾(レプリカ)を見ることが出来る

その後平和の礎(いしじ)へ。

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刻銘碑を通り抜けて会場に行こうとしたとき

Nさんはそこに佇んでいた遺族らしき2人の女性に声をかけて

私もすこし話を聞いた。

ともに戦争前は那覇にいたが

戦いが激しくなってから、それぞれ本島の北部と

台湾のほうへ疎開したという。

とくに台湾へ家族で疎開された方はお父さんは

那覇に残ったことで空襲で死亡。

お兄さんも満州の機械工場に働きに行ったまま

行方知れずになってしまったとのことだった。

当時9歳、家族の記憶も詳しいことは

お母さんから戦争が終わったあとに

断片的なことを聞くのが精一杯だったと。

なんとも言えないやるせなさを感じた。

それでも話を聞くことが出来たのは良かったと思う。

これまで知らなかった沖縄戦の事実を知ることが出来たからだ。

「台湾に疎開することが出来たんだね。」

「昔は日本領だったからでしょうね。」

平和祈念式典は入り口のゲートが混雑して煩わしいから近くで

見ることにした。

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最も私達は14時開始の白梅慰霊祭に間に合うかどうかが気になっていたので

「式典は12時50分に終わるけど、12時半になったらここを出よう。」

と決めて12時に黙とう。

「祭壇のほうは高台になっているのかな。」

「平面じゃないでしょう。でないと席と同じ高さじゃ見えないよ。」

「報道陣のこともありますしね。」

花のあと玉城デニー知事のスピーチは素晴らしかった。

最後にウチナーグチ(沖縄方言)と英語による誓いも入っていて

これは初めてのことだった。拍手も多かった。

天気も荒れ模様だったのが雨も風もやみ

すこし雲も切れてそれがなによりの救いになった。

ただ、ここからがうずみ火沖縄ツアーに参加して

初めての大騒動になってしまったのだった。(つづく)

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