さだまさし はじまりの場所から

2月16日のBS-TBSで放送された

「ドキュメントJ」は昨年10月に長崎放送NBS)で制作された

さだまさし はじまりの場所から」をやっていた。

 これがなかなかの見ごたえがあった。

 芸能生活45年を迎えて、さださんがプロ歌手としてのデビューしてから

の足跡を前後の歴史をご本人が振り返る形で番組が構成されていたが

新たな発見を見ることが出来た。

NBSを訪ねたさださんはかっての自分の残した跡をたくさん見るのだが

プロになるきっかけは吉田政美さんと「グレープ」を組んで

自主制作盤を出しながら活動を始めたところで

「幻の邪馬台国」の著者で経済小説家の城山三郎氏の

「盲人重役」のモデルでもある宮崎康平氏が

NBSに新番組「土曜ワイド・テレビニュータウン」が始まった時(1971年)

にグレープを紹介したことがきっかけになったそうだ。
kotobank.jp

当時のNBSディレクターだった増川雅一氏はまだ20才の青年

なのにさださんの作る唄には哲学があると感じて

以来レギュラーとしてこの番組で歌わせることにしたそうだが

最初は宮崎氏のつくった歌詞をそのまま持ってきたのではないかと

疑ったこともあったそうだ。

そして1973年3月17日にNBSホールで同番組の放送中に

ライブをやった後に東京からレコード会社のディレクターが

やってきて「やってみないか」とスカウトされたということ。

まだSNSやYouTubeはおろか、インターネットがなかった時代、

フォークソングからニューミュージックへの時代へと

芸能界が革命的な変化を始めたころに

自身の歌が地方局からマスメディアを通じて

プロデビューへと至る、それは決して楽な道ではない。

だからこそ、周囲は本物の実力がある「金の卵」を

必死になって探していたところに

大きなチャンスが巡って来たのだ。

そして同年の9月、当時のワーナーパイオニアから

メジャーデビューが決まり、最後の「ニュータウン

の放送後、そのままグレープの2人は車に楽器や荷物をそのまま

積み込んで万歳三唱の中を長崎から一日かけて大阪に移動したという

話をした。増川さんにその後宛てた手紙には

「番組のレギュラーがなくなることは寂しいけれど、

 ここで天下を取らなければ男がすたる」と書いてあったそうだ。

私は増川さんには何度も生で顔を見かけている。

NPO法人ナガサキピーススフィア貝の火運動」の理事長などの

要職を務め、

さだまさし会長が進める平和と貧困と救援の活動の啓発と

きずなを広げていく活動を進めているまとめ役として

長崎から東京をはじめ頼まれる場所へと足を運び続けている。

私は増川さんの過去の経歴を知らなかったので

それが新しい発見だったのだ。

長崎で行われた45周年記念コンサートには

地元だけではなく全国各地からファンが来た。

グレープ最後のコンサートに残したメッセージ、

「あなたが父親 母親になり 

 あなた自身の青春のなかに

 グレープという名が

 ひとかけらでもきざみこまれていたら

 僕達にとって これ以上の幸福なことはありません

 ありがとう そしてーさようなら」

それから「さだまさし」は親子2代(あるいは3代!)に渡る

人気と支持を得るアーティストとなった。

それはまさに歌の中にある哲学がそうさせたものであるかもしれない。

それにしても今のテレビ局は地元に眠る若き才能を発掘する努力

を本気でやっているのだろうか。

それとも時代の変化を理由に言い訳を決め込むつもりだろうか。

そんなことを最後に感じさせてしまう。

吉田政美さんもさださんも67才、いまなおエネルギッシュである。

 

ナガサキピーススフィア貝の火運動のHP

http://www.nagasakips.com/