福島第一原発事故で放医研理事 官邸に「疫学調査不要」のウソ

18日の東京新聞朝刊で、放射性医学総合研究所(放医研)

の明石真言(まこと)理事が福山哲郎官房副長官

疫学調査は不要と進言していたことが、情報開示請求による

文書の中にあったことを記事にした。

2011年4月26日に明石・福山氏が首相官邸で面会

住民の被ばくについて説明した会合の議事概要によるもので

文部科学省が作成し、放医研が保管していたのである。

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明石氏は東京新聞の取材に対して「自分で行きたいとは全く思わない、誰かが

来いと言ったんじゃないか。」と語っているが、誰に呼ばれたかは答えなかった

という。一方で福山氏は疫学調査について「大切なことなので進めてほしい」と面会

記録で返していることから、不要のお墨付きを得るために明石氏を呼んだわけでは

ないと読み取っている。この時の会合では当時の経産省技術総括審議官の

西本淳哉氏、文科省災害対策センター医療班長の伊藤宗太郎氏、

厚労省厚生科学課長の塚原太郎氏も同席していたが、この人たちが

明石氏の発言を遮ったことは文書の中にはなかった。

この会合に前後する動きとして、

経産省は同年4月上旬に国会答弁資料で「放射線量が増加し始めた頃には

避難完了」と書きこみ、同省中心の原子力被災者生活支援チームも

「避難者は健康上問題無い」と評価した文書を出している。

さらに5月上旬には放医研が「住民は障害が発生する線量を受けていない

と推定される」と記した文書を作成し、同じころに文科省副大臣だった

鈴木寛氏に「住民への放射線影響は科学的に問題にならない程度」と

伝えられていたとの事実があった。

つまり、あの会合が始まる前から放医研、経産省文科省厚労省

時の政権に対して、事故で負った住民(避難者)の被ばく線量は

「最も高くても100ミリシーベルトに至らず」「科学的には必要性が

薄い」ということで足並みを揃えて「ウソ」をついていた疑惑があると

いうことだ。

 

明石氏は取材に対して「外部被ばくは原発の正門付近の空間線量から

そこまで(!)にならないと判断した。甲状腺の内部被ばくは国の測定

で測定が高いでも50ミリシーベルト

100ミリシーベルトにならなかったはず」と説明したが

現実には、放医研の文書の中には双葉町から郡山に避難した少女から

100ミリシーベルト甲状腺等価線量が出たとの記録があり

それが、事故が起きて2か月後になる前の、

5月2日の朝の対策本部会議のメモに記されていたのだ。

一旦放医研が健康に影響なしとしながらも

徳島大学医学部の教員(当時)が福島県の測定をした技師から

話を聞き、それを放医研の職員が算定したらそうなったということだが、

それについて「評価が違う」「甲状腺等価線量ではなく

実効線量でやるべきだ」という反論がこの対策会議であったことは

これまでの記事で見ても、そういう発言ことに関する記述はなく、

既に放医研自身が結論づけたことへの反証は

一切スルーを決め込んでいたことだけはわかる。

 

16日に紙面は1面と特報面でこの問題を伝えているが

特報面の後半では、福島県が行っている健康調査に携わる

国際医療福祉大の鈴木元教授が

2001年1月に原子力安全委員会の会合で

チェルノブイリでは50ミリシーベルト甲状腺被ばく

 でもがんが増えたと言われる」という文書を示したこと

を書いている。

それから同年8月には同委による

ヨウ素剤検討会」が始まり、年末には事務局が

示した提言案には「50ミリシーベルト」をヨウ素剤の

服用基準に盛り込まれたものの、

結局その案が出た2週間後に開かれた上部会合の

被ばく医療分科会でこれが突如削除されて

「100ミリシーベルト」が服用基準となった。

だが、2012年3月には再び国際的な動向を踏まえて

「服用基準は50ミリシーベルトが適当」とした

文書をまとめている。二転三転する中で

後を引き継いだ原子力規制委員会

ついに「100ミリシーベルト」などの数値ではなく

「規制委が必要性を判断」と国の指針に書きこんだのだ。

 

こうなると

専門家がまともな判断を示す前に何らかの圧力が

原子力規制委員会にかかれば、被ばく線量にかかわらず

ヨウ素剤の服用を指示したりしなかったりすることが出来る。

また後で深刻な被ばくによる健康被害

出ても専門家や同委員会がその責任を負う必要性がなくなる。

100ミリシーベルト以上の被ばくが避難者から出たとしても、

放医研が何も責任を感じることがなく、資料にその事実を残しても

隠すこともなくほったらかしにしても平気だということで、

あの事故で当時の官僚と放医研のやったことは

「無責任」「住民不在」「ごまかし」「ウソ」ばかりと

言ってもいいのではないだろうか。

なお鈴木氏が訴えてきた成果は事務方のまとめた文書の目に付きにくい

場所の中に残されていたということだ。

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